【当ブログの説明】

こちらは、かつてPosterousというミニブログサービス上で運営されていた「ほぼ日刊ひろさの」及び「煩悩の赴くままに」というコンテンツを再生することだけを目的に開設されたブログになります。
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2011年5月23日月曜日

065:男のコダワリの巻〜特別編

本日は趣向を変えて、ボクではない人のコダワリの話なんぞをば。

暗い話で恐縮なんだけど、先日、カミさんの父親、ボクから見ると義理の父親にあたる人が亡くなったんだ。

まだ60代前半。早過ぎる死だったが、それは突然の出来事ではなかった。

数年前から体調の不良を訴えていて、病院へ通っての治療や入退院を繰り返していたのだが、運がないことにことごとく加療による副作用が発症して、最後は自分の奥さん(義理のお母さん)も娘(カミさんとその妹)も解らないくらい意識が朦朧とした日が1ヶ月くらい続いていた。そしてつい先日、ゴールデンウイークの真っ只中に、とうとう帰らぬ人となったんだ。延命治療は一切拒み続けていた人だったから、最期は衰弱しきっていたみたい。

なんで「みたい」という表現になったのかというと、義理の息子とはいえ、ボクやカミさんの妹のダンナが見舞いにいくことも遠慮して欲しいと言われていたから。遠距離で付き合いも疎遠になりがちな義父の兄弟姉妹や親戚の見舞いも断っていたから、ボクなんかの出る幕はないのも当然だったんだよ。

これは勝手なボクの推測になるんだが、恐らく病に伏した姿を自分の家族=ホントの身内以外には見せたくなかったのだろうと思う。


今更ながら冷静に振り返って客観的に考えてみると、義父は少し変わり者だったんだ。

とある大手電機メーカーで営業一筋。それなりに出世した後に、最後は有名なインターネットサービスプロバイダー(品質やサポートがいいと評判のあそこ)の重役まで勤め上げた人だった。ということはやっぱり仕事が出来る人で、そのプロバイダーの社長からの信頼も厚かったみたいなんだけど、その社長が病に倒れた事をきっかけに身を引いたのに合わせて、義父も55歳で早々に仕事に見切りをつけて、とっととサラリーマン生活を終えてしまったんだ。

もちろん後継は義父しか考えられなかった社内は大わらわでね。それでも義父の意志は固く、二度とそのプロバイダーに戻ることはなかった。

早めの引退を惜しみ、その後も何度となく他の会社からもオファーがあったらしいのだが、いったん身を引いた立場だからと二度と会社生活に戻ることはなかった。一度こうと決めたら譲らない頑固な人だったんだよね。

以降は静かで質素な晩年を過ごしていた。街の図書館に通って好きな本を借りては読んだり、犬の散歩をしたり。阪神タイガースの熱烈なファンで、「スカパー!」のタイガースチャンネルに加入して試合前の練習からプロ野球中継を見るのを日課にしていた。たまにカミさんの実家に遊びに行っても、孫の相手よりもタイガースだったもんな(笑)。

勇退後は夫婦での旅行は頻繁に出かけていた。サラリーマン時代に忙しくて義母とゆっくり旅行なんかしたことなかったからだろう。年に数回は夫婦二人で海外に出かけていた。周囲から見ると気難しい人だったが、義母との夫婦仲はホントに良かった。


変わっていると言えば、こんなエピソードもあったっけ。

ボクがカミさんとの結婚を申し出た直後のことだ。両家が顔を合わせた食事会の時に、結婚式に会社の人をどこまで招待するかって話をした時だったと思う。

ボクが「サラリーマンとしては失格なのかもしれないけれど、たとえ偉い人でも、大して世話になってもいない人を披露宴に呼んでもきりがないし、しょうがない」という主旨の話をしたときに、ウチの父(こちらもサラリーマン)は「何て恩知らずな事を言うんだ!」みたいに怒り出した。そりゃあ常識的に考えりゃ、サラリーマンがそんな発想じゃ困っちゃうのは理解してるんだけど、とにかくボクとしては心からお祝いしてくれそうな人だけ招待したかったし、とにもかくにも面倒くさかったんだよね。

でも、義父はウチに父親とは違ったんだよね。


ボクの意見に即座に同意してくれて、「どうせ大きな会社の中の人づきあいなんて一瞬一瞬の交わりでしかないから、信じられるのは己自身のみ。君の言うように大した恩もない人を義理で呼ぶ必要なんかない」と、ズバッと言ってくれた。

きっと義父は、ボクと一緒で人付き合いが苦手だったんじゃなかろうか。

ボク自身を気に入ってくれていたのかどうかは今となっては確認のしようがないんだけど、この時は妙にウマが合ったのをハッキリと覚えているんだ。

義父が病に倒れて入院した時、ボクも他の親戚同様見舞いにいくことは出来なかったが、線引きが分かりやすくハッキリしていたので、ボク自身が気に病む事もなかった。義父の性格というか思考は何となく理解しているつもりだったからね。


いわゆる「お葬式」はやらないってことも、予め本人の意思として決まっていた。

かなり偉い立場だったのに、かつて勤めていた会社には一切連絡しなくてよいということだった。親戚も一切呼ぶなということだったらしい。義父の兄弟にも予め義理を通していたようだ。

だから、お通夜や告別式なんてない。神にすがるような性格の人ではなかったし、善光寺の近くで生まれ育ったのに無宗教であることはハッキリしているので、お坊さんなんか絶対に呼ばない。

義父の死後にやったのは、義母とカミさんとボクと子供2人とカミさんの妹夫婦の総勢7人のみで、お別れ会と称した会を催しただけ。

ごくごく近しい身内だけが集まり、最期のお別れをして、火葬場に行き、遺骨を持ち帰ってきて、そのまま解散。これだけ。

何ともシンプル。これも義父の意志だった。

ボクの両親には全てが終わった後に事後報告という形で電話で経緯を連絡するしかなかったんだけど、当然このとながら「なんで言わないんだ!」と怒られた。

故人の意志でそうしたんだが、理解してもらうのはなかなか難かしい。

納得がいかないらしく、やめておけと言ったのに実父が義母へ電話をかけたらしい。「せめてお宅に伺って、お線香の一本でもあげたい」という主旨だったらしいのだが、義母も困ってボクに相談してきた。だって肝心なそのお線香をあげる仏壇もないんだから。

義母は申し訳なさそうに「お断りして良かったんだろうか?」と気に病んでいたが、「ボクの方で何とかするんで、放っておいていいです」と答えておいた。今度ボクの両親には遊びに行った時にキチンと説明しておこうと思う。


亡くなった後に知ったことではあるが、まだ考えも意識もハッキリしている間に、自分が亡くなった後でも義母が生活に困らないようにと、ありとあらゆる手続きの方法を詳細に記したノートが残されていた。

生命保険の入院給付額の手続きや保険金の受け取り方法やら、自動車保険の名義変更やら、年金の切り替え手続きやら。

義母は結婚してすぐに家庭に入った人なので、そういった手続きが苦手。なので、いざとなったらボクを頼るようにと言い残してもあったらしい。見舞いには来るなといっておきながら、最後にはこちらに振るなんて「なんて勝手な!」なんて器量の狭いことは一切言わない。

そんな時にもボクは「なんか、義父らしいな」って思っただけだった。

ボクの両親のような常識的な一般の人には理解されないだろう、頑固な義父のコダワリ。そんな男のコダワリに、血のつながりもないボクが共感したのも奇妙な縁を感じる。

だから、何となく亡くなった義父のことを書いてみたくなったんだ。

(おわり)

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